本書の概要はこうだ。かなり長くなるが、ブランドストーリーや家族史を書いているぼくにとって、深く頷ける内容だった。
【以下は、ぼくに興味がある部分だけの、概要】
かつてフィリップ・アリエスは著書『〈子供〉の誕生』(1960年)で、中世までは「子ども」という概念が存在せず、近代になって初めて「幼児期」というものが意識されるようになったと唱えた。中世以前の絵画に描かれた子どもが、実際には大人の顔をしていることや、7才前後になって言語を話せるようになると徒弟奉公に出され、大人同様の扱いを受けた事実を指摘し、子どもは小さい大人だったと。
ところが現代社会では、子どもっぽい幼さや未成熟さは、「価値」として捉えられるようになっている。キース・ビンセントは『「日本的未成熟」の系譜』という著書でこう述べている。「本来なら否定的に捉えられるはずの「未成熟さ」が、不思議と日本発の若者文化の中では独特のエネルギーと斬新さを生みだしている。これは無視することのできない新しい文化の潮流だ。」
しかし、本書の著者阿部公彦は言う。「幼さ」「未成熟さ」の文化は日本特有のものではない。洋の東西を問わず近代社会にある。では、どのようにして中世以前は否定されてきた「幼さ」が価値になっていったのか。
いつのことか言語が生まれて以来、人はたえずお互いに言葉を交わしてきた。神話や法など共同体にとって重要な物語は、石に刻まれたり、口伝えで残されたりすることで表現を与えられ保存されてきた。近代以前にはそうした語りは、個人がおいそれと手を出せるようなものではなかった。語りを支配したのはあくまで共同体であり、その統制のもとに権威づけられて広く流通し、また後代に受け継がれた。語りを成立させるための石や紙、また祭儀や詩型といった硬軟それぞれのメディアは、個人が自由に操作できるものではなかった。
それが、16、17世紀と時代が下るにつれ、印刷術が発達し、紙などのメディアが徐々に個人の自由になっていくと、印刷されたパンフレットや書物を通して不特定多数の読者に対して「語り」を行うという状況が増えてきた。言葉を発する権利が”民主化”されていったのだ。
メディアの解放とともに人は語る主体として自由に語ることを許されるようになった。しかし、この自由にはもう一つの面がある。言葉が共同体から未承認で権威の裏付けがなければ、信用や信憑性や真実らしさを欠いた、どこか「いかがわしい」ものと見られてしまう。
そうした言葉は公的には「未承認」の状態にあるという点で、社会における「幼さ」の位置ときわめて類似している。弱く、はかなく、権力からも隔たっているが、しかし、その代わり新鮮で、約束事や因習や形式からは自由。まだまだ手垢もついておらず、既視感がない。
このようないかがわしい語りが印刷術の発達と共に、近代に入ると徐々に市民権を得る。語りを行う者にも、一定の社会的評価が与えられ、文筆が商業活動として可能になった。
こうして現れた小説家の創作物に期待されたのは、どこかの誰かにふりかかった「個人的な体験」の披瀝だった。共同体の約束事に従って様式化された”公的に承認済み”のものよりも、未承認で、薄暗い、信用するにも躊躇するようなものを人は読もうとした。それは「まさか」というような、予想を外れるような意外性に満ち、いかにも個人的であるような等身大のスケール感も備えていたからである。
個人が語る言葉は、弱く、はかなく、信用ならない。嘘か本当かもわからない。そうしたいかがわしさの根本にあるのは、近代人特有の弱さであり、「幼さ」なのだ。
◎以下は、本書を読んだ雑感。
→印刷どころか、いまやインターネットだもんね。権威権力を圧倒している。
→真木準のコピー、「あんたも発展途上人。」を思い出した。(サントリーホワイト・菅原文太)
このコピーは、経済成長期の日本を反映しているという視点で捉えられることが多かったようだけど、発展途上=未成熟でいつづけることの心地よさという、日本人共通の意識でもって支持されたのかもしれないな。「あんたも」って言っているし。
→あえて結婚しない若者、あえて子どもを作らない夫婦が増えているとか。これも現代人の成熟拒否なんだろうか。
→幼さで始まり、幼さで終わる。そんな人生観が主流を占める今日、「成熟」や「大人」はどうなってしまうのか。
→願わくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ
西行法師のような、成熟へ、さらには老いから死へと赴こうという美学は失われたんだろうか。
→そういえば、昔サミュエル・ウルマンの『青年の詩』ていうのが経済人の間でもてはやされたことがあった。年老いても青年のように気力にあふれ若々しくありたい。それが青春だという詩だが、これもある意味、成熟(老化)拒否と言えないかな。以下、この詩の前半。
青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心の様相をいうのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、
怯懦(きょうだ)を却(しりぞ)ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、
こういう様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。
→老いや成熟を拒否して、ロリータファッションに身を包むおばあさんを町中で見かけることがある。
あれはイタい。でも現代は、成熟を拒否する、アンチエイジングが当たり前の価値観になっている。
じゃ、大人になってしまったぼくたちは、どうやって
成熟や老いと折り合いをつけていけばいいのか。
ひとり一人の「大人」が問われている。
→岩崎俊一さんの広告コピーにその答のひとつを見たように思う。
「おとな。but カワイイ」。
10年ほど前のコーセーのコピーだ。
大人の女に対してどうあるべきかを提案するコピーだった。
成熟した大人の女らしい美しさを受け入れながらも、「but」
かわいさを失いたくない。
成熟を受け入れながらカワイイ(幼さ)にこだわろう。そういう世間とのつきあい方、生き方を
岩崎さんは提案している。時代を切り取る目はさすがに鋭い。
→「老い」が価値を失った社会という視点で、ケアマネージャー兼民俗学者の六車由実さんは
著書『介護民俗学へようこそ』の中で概略こう書いている。
老いが尊敬された社会は、「経験」が尊重された時代であった。近代社会は、機械化・自動化・分業化による能率性向上が優先され、長年培ってきた経験知より、技術知(テクノロジー)が優先される。そういう社会では「老い」は衰退であり、「経験」は価値を失う。つまり、「成熟」には価値がない。成熟した大人になり、老いていくことに価値を見いだせない社会に未来や希望はあるか。介護の現場はまさに今日の社会の縮図だ。